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2009年10月

2009年10月30日 (金)

夏目漱石①

夏目漱石『それから』(新潮文庫)を読了。吉本隆明の『言語にとって美とはなにかⅠ』を読んだときに、近代文学史にかかわる記述があった関係で、明治期のものをもう一度読み直してみたいという気持ちになりました。そこでやっぱり漱石でしょう、ということで家にあったものの中からまず『それから』を手に取りました。読んでみたら・・・驚くほど忘れてました。こんな明確な「不倫」話だったとは、まるで忘れてました。ラストの「赤」が妙に印象に残ります。そこまでがわりと淡々とストーリーが展開するので最後に主人公にまとわりつく「赤」という色調が象徴するものが何なのか?これが妙に気になります。前途の多難なのか、境遇に対する憎悪なのか、一人で三千代さんを守ろうとするその気概なのか・・・。

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2009年10月25日 (日)

電話交換手

内田伸子『子どもの文章 書くことと考えること』(シリーズ人間の発達1 東京大学出版会)を読みました。興味深い心理学の本です。心理学の実験によっていろいろなことがわかるものですね(実験そのものもとても興味深いものです。ただ、筆者は研究者なのでこうした実験の結果に対する評価にはたいへん慎重です)。面白かったところをいくつか上げてみたいと思います。①物語を作る能力はほぼ5歳半から顕著になります。このへんから他者意識が強くなってくるのがその理由の一つのようです。②作文を書くときの子どもたちの頭の働かせ方はコックさんが料理をしているよう、というよりもむしろ電話交換手のようなものらしいです。つまり、自分の思想、表現、経験、知識、計画、修正などありとあらゆるカテゴリーの間を行きつ戻りつしながら書いているということです。③書いたものの推敲は5年生の段階で大人とほぼ同じことができるようになっているらしいです。

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2009年10月19日 (月)

メモというジャンル

梅田卓夫・清水良典・服部左右一・松川由博『新作文宣言』(ちくま学芸文庫)を読みました。面白い内容です。一言で言えば「作文」ってそもそも何なの?ということを徹底的に考えてみた・・・という本です。とくに私は「メモというジャンル」の章が目からうろこでした。メモを作文の準備段階と考えない、メモの方が完成形よりも内容的に素晴らしいことがある、という主張です。私もなんとなくこういう経験をしたことがあります。例として掲載されている高校生の作文もいいです。ただ、おそらくこの本文中には書かれていない指導のポイントがたくさんあるはずです。著者たちは作文の根元的なことを探るのが目的で、どう発問したか、どう助言したか、というようなやや枝葉末節に見えること(本当はここも根元的なのだと私は思います)は視界からはずれていると推察されます。この予想が正しかったことは著者を講師に招いて文章講座を開いた公民館の方の「解説」を読んでわかりました。

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2009年10月18日 (日)

指示表出と自己表出

吉本隆明『言語にとって美とはなにかⅠ』(角川文庫)を読了しました。いやー大変だった。難しい。相手は吉本隆明なので一応覚悟はしていましたが・・・前半の言語の部分は理解したつもりです。言語には指示表出機能と自己表出機能があるという話です。これはすごく納得できました。簡単に言えば主に表現しようとする言葉、主に相手に伝えようとする言葉と言っていいでしょうか?言葉の理解に役立つ分析です。が、後半の文学史(著者は表出史という言葉で説明しています)は話体と文学体という概念で論を進めているのですが、これが難解です。概念自体も含めてまだよくわかりません。

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二つの止揚

西郷竹彦『名句の美学 下』(黎明書房)を読みました。上巻に引き続き西郷文芸学の奥の深さを知りました。確かに、この理論を使って説明されるとあやふやだった「この句」のよさが浮き出ててきます。第1章の「かけことば的声喩」や第2章の「一語のはらむもの」の分析は唸ります。やや自分なりにつかめてきたのは、西郷氏は必ず2つの観点で語、文、文章及びその関係を見て、そこから止揚して美の本質へ迫っているということです。こうした構えで読むだけでかなり文章の理解が深まってくるように思います。もう少し勉強する必要がありそうです。

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2009年10月11日 (日)

法則化運動の評価

飛田多喜雄『続・国語教育方法論史』(明治図書)を読みました。駆け足で戦後国語教育の思潮を概観することがことができます。読後の感想は3つです。一つは紆余曲折と言いますが、さまざまな理論が現れては消え、消えては現れ・・・印象としてはこうした理論で現場が混乱してきたのだということです・・・今も同じですがね。そもそも「単元学習」だって戦争に負けたから導入されたのであってスタートからして日本の国語教育にとっては必然ではないのですから。が、しかしそこには「いいもの」もあるわけで一般的に言って日本の国語教育界はうまく取り入れてきていると思います。次は歴史は繰り返すということです。現在の問題点はほぼすべて過去の戦後国語教育史に現れています。最後に法則化運動への評価です。飛田氏は法則化を高く評価しています。これは驚きでした。そろそろ戦後教育史の中における法則化運動の適切な評価が行われてもいい頃かなと思います。

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2009年10月 8日 (木)

直子・心平・隆介

府川源一郎『「国語」教育の可能性』(教育出版)を読了。とても読みやすい好著です。著者は研究者ですが、もとは小学校の教師です。その豊富な実践例がとても面白くて、参考になります。工藤直子の詩のタイトルを予想する学習、草野心平の「ごびらっふの独白」を自由に想像して訳を書かせる授業、聞き書きによる作文活動、斉藤隆介作「八郎」と「ごろはちだいみょうじん」を方言の観点から単元化する構想など・・・どれもアイデアが豊かで子どもたちがノってきそうなものばかりです。国語の学習の深さと幅の広さを感じることのできる内容です。

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2009年10月 4日 (日)

コミュニケーションダンス

尼ヶ崎彬『ことばと身体』(剄草書房)を読了しました。言葉の問題をさらに広げてくれた一冊です。「知る」と「わかる」、頭でわかると腑に落ちる、言語的定義による理解と「らしさ」による理解の関係など・・・人間の認識に関わる言葉と身体の問題を論じています。例えば、私たちが「椅子」という概念を獲得するのは言語レベルの命題を知ったからではありませんよね。実際に椅子に腰掛けるという実践的経験を通して、その行為全体をもって「理解」しているはずです。氏は「身体的経験が概念の獲得に先立つ」のだと言います。であるから、私たちは単なる定義的な説明だけでなく事例や用例、レトリックによる隠喩などがないと「理解」したという気持ちになれないというわけです。人間は話し手として音声を発しているとき、その音声に微細に身体各部が同調しているんです。しかも、聞き手の身体も同じく同調しているだそうです。人間のコミュニケーションは頭と頭のコードのつながりではなく、体と体のダンスなんです。

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2009年10月 3日 (土)

最後の授業

府川源一郎『消えた「最後の授業」言葉・国家・教育』(大修館書店)を読了。これ、じつは1週間前に読み終わっていました。ここに記録するのを忘れてました。前に読んだ同じ著者の「ごんぎつね」と同じ構成です。そういえば昔、この「最後の授業」を教科書で読んだ記憶があります。この教材にもいろいろなドラマがあるんですね。興味深い内容でした。文中にとても感動的な言葉があったので引用しておきます。「教室の子どもたちの読み一つ一つは、実質的に日本の文化を支えているのだ」・・・なんだか背筋が伸びる言葉です。

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生殖と生計

見田宗介『宮沢賢治 存在の祭りの中へ』(岩波現代文庫)を読みました。天沢退二郎や吉本隆明ほどではありませんが、これも難しい本ですね。が、いろいろと目を開かされる内容でした。宮沢文学には4つの象限があるという分析は卓見かと思います。存在否定と存在肯定、現実と幻想という2つの軸で4つの象限を作ります。賢治文学のテーマはこの4つの象限を「自我の羞恥」→「焼身幻想」→「存在の祭り」→「地上の実践」という順番に廻っているというのです。確かに、「銀河鉄道の夜」のジョバムニなどはこの通りに意識を変化させています。こういう視点で見てみると全体像がつかめる感じがします。また、賢治は生殖と生計という2つの大人の能力を自ら拒否して子どもとしての感性を残した・・・という氏の解説もなるほどと思いました。

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